【ネタバレ】『Virginia』ストーリー解釈

 ゲーム『Virginia』(2016)のストーリーについての私なりの解釈。

 どう解釈すべきか、未だに確信の持てないショットもあるが、ストーリーそのものはそれほど複雑なものではないように思う。ただし、作品のモチーフ、テーマを深く理解するには、アメリカ現代史の知識が多少必要でもある。また、日本語版では必要な情報が訳文から抜け落ちている箇所もあるようだ。

 当然ながら、ネタバレを含むのでご注意。
 (なお、ネタバレ抜きのレビューはこちら。)

あらすじの要約

 説明すべき要素が多くなるので、まず前提として、私の解釈するあらすじを簡潔にまとめておこう。

なお、私は日本語字幕で「アシスタント・ディレクター」という機械翻訳(?)が与えられている“Assistant Director”に「部長」の訳語を当てている。現実のFBIに存在するのは“Executive Assistant Director”で、“Assistant Director”という役職名は、どうもテレビシリーズ『X-ファイル』へのささやかなオマージュのようだ(『X-ファイル』の作中役職名については、こちらのブログ記事が参考になった)。

 新米のFBI特別捜査官アン・ターヴァーは、特別捜査官マリア・ハルペリンに対する内部調査の指示を受け、ルーカス・フェアファックスという少年の失踪事件を捜査するパートナーとして、マリアとともにキングダムという町へ向かう。
 二つの並行する捜査のさなかで、アンは、マリアの母親ジュディス・オルテガが、FBI上層部の陰謀・不正に対する申し立てを繰り返したために、内部調査の末に職権を剥奪されたFBI捜査官であったことを知る(そして、アンに内部調査を命じた部長がこのときの内部調査を担当していたことも知る)。
 だが、ここでアンはマリアに彼女に対する内部調査を行っていたことを知られてしまう。アンは、マリアの自宅の錠がかけられた部屋へと忍び込み、そこで、マリアが彼女の母を陥れた部長とFBI組織に対する個人的調査を秘密裏に行っていることを突き止める。アンは、これを部長に報告しかけるが、思い止まり、マリアの前で内部調査報告書を投げ捨てる。すると、マリアは、彼女もまたアンのことを疑ってアンの部屋に忍び込んでいたことを知らせる。
 アンのこの裏切りは部長を失望させ、ルーカスについての捜査中に令状なしに二人でフェアファックス宅に忍び込んでいたことも仇となって、アンはマリアとともに地元警察署の留置所に投獄される。獄中でアンは、マリアについての報告書を提出して同僚たちを告発しながら出世街道を歩んだ自分の姿を一旦は夢見るが、マリアとその母ジュディスに対する裏切りをよしとせず、この夢を断ち切り、捜査中に現行犯で取り押さえた少年の所持品のなかにあった麻薬を飲んで、幻覚のなかで、アン、マリア、ルーカスがキングダムを出て自由になる夢を見る。

物語が示唆するもの

 物語は、アンとマリアがそれぞれ父親と母親から託されたものをめぐって展開されている。

 アンの父親(元警官)がアンに託したのは、クローゼットにしまわれた赤い小箱の鍵である。アンは、FBI捜査官に就任したことを報告した際、これを病床の父から受け取っている。アンはこれを開けて中の書類を取り出すが(この際、箱は開いたものの、鍵が折れる)、これを焼却炉に投げ込み焼却している。この出来事が気がかりとなっているため、クローゼットの戸と焼却炉のイメージがアンをつきまとう。
 これを焼却することが父親の意思だったのかは不明だ。おそらく、アンは父に託された書類の束を「知らないほうがいい」「出世の邪魔になる」と自分で判断して焼却したため、罪悪感を抱き、《失われた真実》を思い出させる折れた鍵を手放せずにいるのではないか。あるいは、父の側が、これからエリート街道を歩むアンにとって厄介なものになるから、と処分を命じた可能性もある。
 いずれにせよ、プレイヤーは、これらの書類がいかなるものであったかを知ることはできない(アンが、内容を知って焼却したのか、知ろうとせずに焼却したのかは、不明)。

 他方、マリアが彼女の母親ジュディス(ペンダントの写真の人物)から受け取ったのは、人種差別・女性差別の根強い時代に生きたジュディスの権力との苦闘の歴史そのもの、と言っていいだろう。アン/プレイヤーは、まず、内部調査のさなかで、FBIの資料室に保管されたマイクロフィルムから、ジュディス・オルテガが、目覚ましい活躍をする黒人女性捜査官としてメダルを授与されたこと、組織内部にありながらフーバー長官らFBI上層部の陰謀・不正に対して公然と立ち向かおうとしたため、危険と判断され、「非従来的な手段」を好む彼女の捜査手法を言いがかりとした内部調査の末、停職に追い込まれたことを知る。
 次いで、アン/プレイヤーは、マリアの自宅(後に忍び込む場面で見ると、表札は「Ms. J. Ortega」となっている)に泊まった際、段ボールが積まれた一室に「私たちのシスターを救え」(“SAVE OUR SISTER”)、「平和のための女性のストライキ」(“WOMEN STRIKE FOR PEACE”)、「家事労働賃金のため」(FOR HOUSEWORK WAGES)、といった標語の書かれたポスターがあるのを見つける。そのなかの一つに、1960年代の新左翼学生運動団体SDS(Students for a Democratic Society 「民主的社会を求める学生たち」)の名前の入ったポスターがあり、これはジュディスの学生時代の持ち物であると推測される。

 マイクロフィルム資料にその名が登場するフーバー長官とは、明らかに、1924年から72年まで48年間ものあいだFBI長官を務めたジョン・エドガー・フーバーのことで(二つ目の資料には“Edger”との呼びかけが含まれている)、フーバーがマフィアとは癒着する一方で、自身の保守的な政治信条から見て「アメリカに対する脅威」と映った人物に対しては権力を濫用して執拗な監視・迫害を行っていたことが今日では明らかとされている(公民権運動の指導者キング牧師に対する監視と脅迫が有名)。フーバーは、1950~60年代には、公民権運動(人種差別撤廃を求める運動)やベトナム反戦運動に対する弾圧に熱を入れていた。最初のマイクロフィルム資料で、ジュディスへのメダル授与にフーバー長官の参列はなかったと記されているが、ここには、人種主義者フーバーの公民権運動に対する敵意、という背景を読むべきだろう。

 先にも述べたように、ジュディスに対する内部調査にあたっていたのが、アンの現在の上司コード・マッカランで(三つめのマイクロフィルム資料である報告書に“SA, C. MCCARRAN”の署名、SAは特別捜査官 Special Agent の略)、マッカランはマリアを自分が陥れた人物の娘として警戒して、マリアに対する内部調査をアンに行なわせると同時に、その過程で明らかになる事実にアンがどう反応するかを見ることで、アンの彼と組織への忠誠心をテストしようとしていたのだと推測される。

 つまり、差別と不正義の歴史という「遺産」を忘却することで、自身の個人的成功を掴もうとしていたアンが、同じ「遺産」を引き継ぐマリアと出会い、彼女を彼女の母を追いやった同じ人物に突き出すか、「遺産」から再び目を背けるか、選択を迫られる、というのが、物語の根幹なのである。

 アンは、獄中で、マリアに対する内部調査報告をマッカランに提出して出世街道を歩んだ、自身のあり得た未来を思い描くが、そこで垣間見るのは、ターバンを巻いたシク教徒らしき男性に対する内部調査から始まる、形を変えて繰り返される同じパラノイアと迫害の継続であり、アジア系と思しき黒髪の女性にバッジを渡し、内部調査を命じるところで終わる。

 そこでルーカス、マリア、ジュディスの存在から現実に立ち返ったアンは、代わって、手元に残っていた押収品の薬を飲みこんで幻覚体験(acid trip)に入り込む。

幻覚体験のなかで見るもの

 薬を飲みこんだアンが最初に見るのは、壁を破って現れるエレベーターで、それはアンを捜査で訪れた原っぱへと導く。そこからアンは洞窟の先のトンネルを抜けて、館のような場所にたどり着く。廊下を進むと、白い仮面をつけた人々が出迎え、ホール(天井の形状から捜査で訪れた天文台、と分かる)へ出る。そこでは、仮面をつけた部長、警察署長、空軍高官、市長、牧師、白衣の黒人女性が壇上でバッファローを取り囲んでいる。バッファローをナイフで殺そうとした女性をアンが止めたところで、目の前に立つ5人の男たちの視点に次々と入り込むクライマックス・シーンが始まる。そこで、アン/プレイヤーは、彼ら権力者たちの仮面の下をのぞくことになるのである。

 警察署長は、組み立て中の模型が一か所壊れただけで、机の上のものをすべて投げ飛ばし、泣き伏せてしまう。
 笑顔で挨拶に回る市長は、写真機のなかで自信を喪失し、撮り終えた何枚もの写真を広げて泣いている。
 空軍高官は、昼間から外食の紅茶に持参の酒を入れようとするアル中で(すでに飲み干してしまったようで酒はなく、本人の顔が赤い。ピンクの熊のぬいぐるみがテーブルの上にあり、これからマリアとアンの見舞いに出向くところだ、と分かる)、同じく軍人となり父親となった息子からハグをされそうになり、酒の匂いが移ると恐れてか慌てて拒む、というみっともない姿をさらしてしまう。
 アンの上司である部長は、孤独を抱えているようで、秘書の膝枕の上で子供のように頭をなでられている。
 ルーカスの父である牧師は、息子と同年代の10代の少女に手を出し、そのことを知る妻や息子に対して恥じ入りもしない。

 これらが彼らの実際の姿であるかは定かでない。あくまで「アンの視点に映った本当の姿」と考えたほうがいいだろう。肝心なことは、この目まぐるしい視点の転換が「自分もまた仮面をつけていた」というアン自身の気づきとしてなされていることで、儀式を執り行う男たち(「保たれるべき秩序」という名のカルト)に従ってバッファローを殺そうとしていた女性は、実はアン自身であったのである。そうして、アンが仮面を地面に落とし(カルトと決別し)、仮面が砕けると、天井が浮上し、青い光に包まれる。

 場面が転換すると、そこは、アンがマリアのペンダントを拾いに入り込んだ空軍敷地内の空き地で、ルーカス少年が夜空を見上げている。アンがルーカスに近寄ろうとしたところで、空からUFOが現れ、光の柱が降り、なかからジュディスと思しき女性が現れルーカスの手を取り光のなかへと導く。アンが光に駆け寄ると、画面が転換し、岩を乗り越えて走り去っていくルーカスの後ろ姿が見える。画面が暗転し、アンは自分がダイナーのボックス席にいることに気がつく。

ラストについて

 ラストについて、UFOのシーンのあと、アンはダイナーにいる自分に気がつき、ここであたかも夢から醒めたように見えるが(と考える場合、どの時点から夢だったと見るべきか、また問題になるが・・・)、私は単純にエンドクレジットに入るまですべてアンがアシッド・トリップの最中に見ているものなのだと判断する。アンとマリアの身分証を持ったままの釈放は考えにくく(テーブル上にはアンの身分証がある)、アシッド・トリップ後の出来事ではあり得ない。テーブルに置かれたコーヒーカップがダイナーのものではなく火曜日に警察署内で受け取るものと同じ細長い形状をしていること(下の比較を参照)、ルーカスがギターケースを持っていること(月曜日の調査の際、ギターは彼の部屋の暗室に残されていた)など、夢と考えるべき要素が多い。また、火曜日の捜査中に拾うルーカスの帽子が車内に置かれているので(洞窟内で拾った場合)、月曜日の最初のダイナーのシーンにまで戻った、とするのも無理がある。




上がダイナーの、真ん中が警察署の、下がエンディングのコーヒーカップ

 これがアンの見ている夢だという前提で、描かれている出来事をまとめよう。

 アンがテーブルで折れた鍵を眺めていると、マリアが現れて、置かれた伝票を取り、アンを一瞥してから去る。アンは鍵を置いて席を離れる。彼女が手放せずにいた鍵をここで置くのは、ジュディスの「遺産」を背負ったマリアと向き合うことを通じて、自分が父から受け取り損ねた「遺産」の問題を彼女のなかで解決することができたから、と解釈することができよう。
 マリアの運転する車で二人はキングダムを去っていく。二人を乗せた車は、途中、ギターケースを抱えた赤いトレーナーを着たルーカスを追い抜く。ここでマリアのほうを振り向いても、マリアはルーカスに反応を示していない。このショットは、ルーカスは偽善に満ちた父親やコミュニティに嫌気がさして自らの意思で町を去ったのだ、というアンの希望する結論、として受け取ったほうがいいだろう。

 エンディングは不思議と開放感のある明るい印象を残すが、これは哀しい結末だ。現実のルーカスは行方不明のままで、なにより、マリアとアンは警察署の牢内にいる。しかし、明るい印象を残すことにはそれなりに理由があって、それは、これが選択を迫られながら屈しないことを選んだアンの物語、繰り返される歴史を自らの場において断ち切ったアンの物語でもあるからだ。町を去る三人のイメージそのものは幻覚であっても、アンの見出した自由、アンが自由を見出した事実は偽物ではないのである。だから、私たちはこの哀しい結末から希望を受け取っていい。

 ・・・というのが、私の受け取ったストーリーでありテーマであるが、説明してこなかった要素について、以下で触れておこう。

謎めいたオープニング

 オープニングで最初に挿入されるのは、暗闇で小箱に鍵をかける主観ショットだ。指の形状がアンのものとは異なり、また左手に結婚指輪をしているので、この鍵をのちにアンに渡すアンの父親の手である、と推察される。一周目では気がつかなかったが、全編を通して唯一アンの視点によるものではないショットだ(終盤のアシッド・トリップに際して、アンは他者の視点に次々と入り込むが、その間も手はアンのもののままである)。このショットをどう解釈するかで、ゲーム全体の前提が変わってしまう。

 このショットと本編に挿入される生命維持装置の音から、「これはアンの視点の物語ではなく、すべてはアンの父親が死の床でめぐらせた思いであるに違いない」という、かなり大胆な解釈を披瀝するプレイヤーもいるようだ(ネットで検索し始めるときりがないだろうと思って、自分からはほとんど調べていないが、プレイヤーのさまざまなエンディング解釈については、Polygon の記事を斜め読みした)。
 夢の中で聞こえる生命維持装置の音(FBIの身分証を受け取った直後に周囲の人々が姿を消すシーンと、マリアの机の上にペンダントの代わりに警察帽を見つけて持ち上げるシーン)については、単純にアンが父の存在を思い起こしている、と見たほうが文脈的に自然であるように思えるし、私自身は、一貫してアンの視点による物語として見たほうが整合性があり、より感動的であるように思っているが、「アンの視点」として理解する時、この冒頭のショットの位置づけが曖昧になるのも確か。私に、今のところ、すっきりとした結論はない。

シンボリズムについて

 正直、私は、バッファロー、赤い小鳥といったそれぞれが何を象徴しているか、といったシンボリズムについての解釈を加えることに、あまり関心がない。それらが毎回その場に現れているモノというより、繰り返し現れるシンボルである、とさえ認識できれば、とくに気難しい説明を付け加える必要はないだろう。各シンボルを「自由」「真実」といったありきたりの語句に還元してしまうより、場面での具体的な機能の仕方を見るほうがいいように思う。ちなみに、UFOは、ルーカス君の逃避願望の象徴であって、現実ではないと思う。

 バッファローは仮面をつけて生きる代償に殺されなければならないものであり、アンの夢の中でそのバッファローがしきりに「見ろ」とうながす小鳥は、アンの手の中でマリアのペンダント(=ジュディスの写真)に姿を変える。それぞれを何と名付けるかは、プレイヤーの自由だろう。

あくまで私なりの解釈

 ふだんは管理を面倒に思ってつけないことにしているが、この記事についてはコメント欄(承認制)を開けておくので、ご意見などがあればぜひどうぞ。


【追記】(2016/11/03)

 書きそびれたことやあとから気になったことなどを、「補遺」としてまとめた。そちらもお読み頂ければなによりである。

6 件のコメント:

  1. リンチ好きなので、ツイン・ピークスを連想させる、というネットの記事を読んで興味を持ち、あまりゲームはやらないのですが、Virginiaをプレイしてみました。
    補遺も拝読しましたが、歴史や翻訳の知識などが素晴らしく、プレイして良く分からなかった点が合点がいきました。
    雰囲気がとても好きなゲームなので、もう何周かプレイしてみます。ありがとうございました。

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  2. こちらこそありがとうございます。公式の翻訳にケチをつけてしまいましたが、ただ、英語サイトの書き込み眺めても、「何が起きてるのかさっぱり分からないけど、感動した!」みたいな感想が多くの人が真っ先に語るところで、私自身も、最初にプレイしたときは全くそんな感じでした。バーのシーンとそのあとの夜の町を見下ろして二人でビールを飲むシーンとか、わけも分からず、ただ涙が流れてきて。
    個々の場面に不思議な切なさみたいなのがあって、それだけで十二分に魅力的な作品だったんですけど、この感じはなんだろうな、とメモをつけ始めてみたら、これはやっぱり力強い感動的なストーリーだと確信が深まっていって・・・自分の作品解釈が、フーバー長官並みの誇大妄想に取りつかれていないことを願うばかりですが(笑)。

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    1. バーのシーンは本当に絶妙なタイミングで登場しますよね。そして言いようのない感情に包まれる。「何が起きてるか分からないけど…今、凄い体験をしている!」と鳥肌が立ちました。
      私はsubculture+さんの解釈がとても腑に落ちています。
      先ほど3回目のプレイを終えたところですが、やはりそう思ってます。

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    2. すみません、前回、返信をクリックしたつもりが、うっかり普通にコメント投稿しておりました。
      余談ですが、ちょうど今週末からアメリカで映画版が公開されている「あなたの人生の物語」のテッド・チャンというSF作家が、最近のインタビューで、刺激を受ける実験的な語り口として、『Virginia』に言及したそうです。
      デヴィッド・リンチがそうであったように、これに影響を受けた作品群がゲームに限らず確実に出てきそうで、楽しみですね。

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  3. すぐ麻薬状態で誤魔化して終わろうとするから
    デヴィット・リンチが嫌いなのに
    知らずにプレイしてリンチっぽいなーと思いつつもエンディングをむかえてなかなか良かったな でもよくわからないなと思い
    ここに辿りついたんですが
    解釈を読んですばらしい物語だ! とちょっと震えました

    デヴィット・リンチ作品も誤魔化しでなくてこんな感じのテーマが隠されているのをみのがしてたのかなぁ

    信じられない笑

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    1. ありがとうございます。

      リンチの場合は、陳腐な言い方すると、もう一つの現実や記憶を創り出してしまう人間の精神力というか心の闇、みたいなものがテーマなんだろうと思います。それが、映画を作る・演じる・観る、といった行為とメタフィクション的に重ねられていって、またオカルトっぽい描写も入るから、異様にややこしいんですけど。
      個人的には好きですが、お話として見ると、どう解釈しようが、ある時期からどの作品も「狂気に取りつかれた人がいました」で終わってしまう感がないでもありません(笑)。
      つまり、映画の関心はその人物のストーリーそのものではなく、むしろ現実を歪めてしまう狂気のその強度に向けられているのですね。だから、ああいう一見ややこしい映画表現にはなるけど、出来事自体は「嫉妬」のようなありふれた題材で。

      『Virginia』の場合、アンの感情と記憶の渦のなかに投げ込まれるので混乱はしますが、ドラッグ・パートを除けば、アン自身が錯乱しているわけではないので、その点が、混沌を混沌として体験させようとするリンチとは作風として違うのかな、と。リンチの関心が人間の抱える内面領域(「インランド・エンパイア」)自体に向かうのに対して、『Virginia』のほうは心理的葛藤を抱える人間の側にあくまで関心があって、アンというキャラクターの物語なんですね。そして、それはすごく感動的だ、というのが、この長い解説の言いたかったことです(笑)。

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