【海外記事紹介】「『レディ・プレイヤー1』におけるスティーヴン・スピルバーグの無自覚で、ゾッとするようなポップ・カルチャー・ノスタルジア」(The New Yorker)

精神的ゾンビたちのホラー映画

 紹介するのは、The New Yorker のかなり痛烈な記事「『レディ・プレイヤー1』におけるスティーヴン・スピルバーグの無自覚で、ゾッとするようなポップ・カルチャー・ノスタルジア」(Richard Brody, "Steven Spielberg’s Oblivious, Chilling Pop-Culture Nostalgia in 'Ready Player One'”, The New Yorker, 2018/04/02)

 アメリカでは2018年3月29日に公開され、日本でも4月20日に公開予定のスティーヴン・スピルバーグ監督のSF映画『レディ・プレイヤー1』(Ready Player One)。《仮想現実「オアシス」を舞台に、少年が仲間たちとともに巨大企業に立ち向かい、世界を救う》という冒険物語風のこの映画をめぐっては、その不穏なディストピア的な性格が指摘されている(関連記事「『レディ・プレイヤー1』:現実世界の破滅に声援を送る」)。ここで「ディストピア的」というのは、物語の舞台となる世界が荒廃している、という意味においてではなく(その意味でのディストピアは意図されている)、作者たちによって自覚されていない荒涼とした精神風景がそこに広がっている、という意味においてである。

 The New Yorker 記事は、この映画を「ホラー映画」と評し、物語の中核にあるポップ・カルチャーへのノスタルジアに、すなわち、物語内の仮想現実「オアシス」の創造主ジェームズ・ハリデーと、映画の作者スピルバーグとが二重写しとなって繰り広げられる過去への偏愛にグロテスクなものが潜んでいるのだ、と指摘する。

カウンターカルチャーが消された宇宙

 以下、The New Yorker 記事より抜粋:

スティーヴン・スピルバーグ監督の『レディ・プレイヤー1』は、ビデオゲームを中心に据えたディストピアを舞台とするティーン冒険物語などではない。ホラー映画である。その魂を数世代にわたる公式的な文化製品の制作者たちによって喰い尽くされ、ポップ・ノスタルジアとして吐き戻された、精神的ゾンビたちについての映画なのだ。企業による専制支配に対する抵抗の物語として描かれているこの映画は、実のところ、死ぬほど愉しませることで、そのえじきとなる人々の思考を支配する、快活な全体主義的略奪者によって繰り返される暴政をめぐる物語なのである。そして映画の息苦しい恐怖は、その事実へのスピルバーグの無自覚さによって倍増されている。


80年代と90年代の子供であるハリデーは、彼の子供時代の強迫的な愛着を半世紀も引きずり、それを21世紀半ばのポップ・カルチャーの中核へと変容させた。『レディ・プレイヤー1』に織り込まれた何十、もしかすると何百というポップ・カルチャーへの言及は、ときに愛想のよいウインクとともに駆け抜け、ときにビッグフットのようにノシノシと歩き回り〔……〕、病理的で人工的なこだま効果を作り出している。すなわち、重要であったものではなく売れたものを中心に置いた視野狭窄的な20世紀後半像を強化するオタク的なトレンドの楽園である。ハリデーの——そしてスピルバーグの——夢想する70、80、90年代の世界とは、スパイク・リーやジム・ジャームッシュやリジー・ボーデンやジョン・カサヴェテスやコーエン兄弟はおろか、マーティン・スコセッシやフランシス・フォード・コッポラもいない時代なのである。それは、ヒップホップのない、パンクのない、パティ・スミスのいない80年代なのだ。ウェイドの2045年の世界にはカウンターカルチャーは存在せず、そして、「オアシス」の空想上の世界にもまたカウンターカルチャーや芸術的オルタナティヴは存在しないのである。


映画におけるノスタルジアのアイコンは、グロテスクなゾンビのカーニバルを、実体・歴史・つながりを奪われたアイコンの画一的なぶちまけ状態を形づくっている。『サタデー・ナイト・フィーバー』に基づいたダンス・コンテストがまばゆいダンス・フロアのライトとともに登場するが、そこには何の物語も伴わない。映画にあった民族ギャング間の抗争や、中絶をめぐる葛藤、強姦をめぐるドラマは存在しないのだ。『レディ・プレイヤー1』が描くのは、スピルバーグと彼の映画以上にクールであったり大胆であったり意識的であったりするアーティストと主題とをきれいに除去した、改変された宇宙なのである。そして、ゾッとすることに、一枚岩の仮想現実とその原動力であるノスタルジアは、映画におけるディストピア的世界観の専制的な側面や恐るべき側面としては描かれないのである。ハリデーは、あたかも彼の若き日の偏愛対象を取り戻そうとするかのように、若き精神的クローンたちの世界を創り出し、自分たちの現在への関心を空っぽにされた彼らクローンたちの精神は、ハリデーの強迫的な愛着によって埋められているのだ。

(最終更新2018/04/11 ※表記不統一の訂正)


【関連記事】

「『レディ・プレイヤー1』:現実世界の破滅に声援を送る」

0 件のコメント:

コメントを投稿

投稿されたコメントは管理人が承認するまで公開されません。