(現実じゃない)世界を救う英雄の旅
スティーブン・スピルバーグ監督の映画『レディ・プレイヤー1』(Ready Player One)は、人々が仮想現実「オアシス」へと現実逃避する荒廃した2045年の未来で、「オアシス」の創設者の遺産をめぐり、17歳の少年が仲間たちとともに、世界支配をもくろむ巨大企業と争奪戦を繰り広げる物語である。2011年発表のアーネスト・クラインによる同名SF小説の映画化(原作は『ゲームウォーズ』の題で邦訳)。アメリカでは3月29日に公開され、日本でも4月20日に公開予定だ。
映画『レディ・プレイヤー1』予告 | ワーナー ブラザース 公式チャンネル
1980年代をはじめとするポップ・カルチャーへの参照が物語においても宣伝においても中心に置かれている本作。
- 参照先が、権利の都合上、主にワーナーのカタログから構成されているのは許すとして、それにしてもポップ・カルチャーは2018年で突如として凍結してしまったの?
- ゲーム内の死がそのキャラクターに費やしたすべてを失うことを意味するのに、みんながアバターを豪華に着飾ってるなんて、未来の世代は搾取的なDLCに寛大になったの?
- ってか、なぜ路上でVRセットをする人々が?
といったツッコミとともに(Dorkly)、過去のポップ・カルチャーへの偏愛を武器に仮想世界を守る、という、一見明るい冒険物語の根幹にある(原作/映画がどうやら自覚的でない)ディストピア的な性格が指摘されている。
以下で、抜粋的に紹介しておこう。
現実世界の破滅に声援を送る
Vox のレビューは、終盤に入るまで映画を楽しんでいたことを断ったうえで、物語が進むにつれ無視しがたくなる不協和音を指摘し、「どうして『レディ・プレイヤー1』は、私たちに現実世界の破滅に声援を送ることを求めるのだろう?」と問いかけている。
冒険映画における(そして、偶然ではないことに、ゲームにおける)主人公たちが、世界の運命が自分たちにかかっていることを発見するのは、よくあることだ。だが、この映画の場合、それは現実世界の運命ではない。そっちの世界は、物語が示唆するように、とっくに修復不可能なまでに壊れているのである。唯一救う価値があるのは、「オアシス」であり、それが最終目的なのだ。
映画の最初のほうのショットは、ウェイドの住む、積み重なったトレイラーハウスをパンで映す。それぞれのトレイラーハウスのなかには、VRゴーグルをつけて、「オアシス」のなかでゲームをプレイしたり闘ったりしているためにやや滑稽な印象を与える人物の姿がある。
これは、私が映画で見てきたなかで最も怖ろしい光景の一つであった。というのも、私たちが現在暮らす世界とわずかな段階の差しかないからである。それはまるで『ブラック・ミラー』からのシーンのようである。すなわち、人々が輝かしいテクノロジーに目を奪われてしまい、人間生活に関わる物事を完全に無視する世界なのだ。
私にとっては、これははっきりとディストピア的に映る。その世界が荒廃しているからではなく、誰もそれを直そうなどと思わなくなっているからである。
だが、『レディ・プレイヤー1』は自らを、世界を救おうとする勇敢で決意に満ちた英雄たちの物語、として提示する。世界といっても、物質世界で起きている現実に関わることから彼らを遠ざけてくれる仮想世界のことなのだが。
映画の終わりまでに、この奇妙な不協和音に対する唯一の譲歩は、時にはヘッドセットを外して現実世界と実際に関わるのはよいことかもしれない、という声明めいたものとしてやってくる。仮想世界における不正義が現実世界における不正義とひょっとしたら重なり合うかもしれないことを考えたり、問題を解決しようとしたりする、ということはないのである。〔……〕これは、勇敢なティーンエイジャーが、大人たちの引き起こした問題を実際に解決する多くのヤングアダルト・フィクションと、歴然とした対照をなしている。
仮にこれが10代の少年の視点から語ることを選んだ物語なのだとしても、『ブラック・ミラー』的なシナリオを(壊れたものとして修理することではなく)維持することに私たちが声援を送るよう物語が求めている、という事実を避けて通ることは相変わらず困難だ。これは風刺ではないし、警鐘でもないのである。英雄の旅だとされているのである。その終わりに何ら問題を解決しない英雄の旅なのだ。
本当に意味のあるものを見つけることが出来る場所
あるいは、「『レディ・プレイヤー1』が有害なファンダムについて私たちに教えること」と題された Cracked のコラムは、私たちはもはや、オタク・カルチャー(geek culture)への執着を無邪気に描いていた2011年の原作小説と同じ時代を生きていないのではないか、という見解を提示している。
「オタクであることがとうとうクールになった」という楽天的な感覚は過去のもので、何かしらのファンであることだけを自身のアイデンティティとする一部の熱狂的なファン層の存在が、「オタクであるだけでいることは、全くに有毒とまではいわなくても、空疎であり得る」ことを悟らせてしまった、というのである。そして、申し訳程度とはいえ、物語が展開とは別の教訓を語っていたことを指摘する。
ティーンエイジャーの主人公、ウェイドが、半世紀も前の過去のポップ・カルチャーに取りつかれているのは、彼がたまたま Atari 2600 〔訳注:1977年発売のアタリ社製のゲーム機〕に出会ったからではないことは記しておく価値がある。彼の人生が仮想現実を中心に回っているのは、彼の現実世界に救いがないからだ。彼の両親は死亡し、貧困がはびこっているために、彼は過密状態のトレーラーハウスに暮らしている。彼は健康な食品を買うお金がないために肥満で、彼には運動をしようなどという動機を感じられないし、教育システムは腐っている、などなど。2044年〔訳注:原作の設定〕はディストピアで、ポップ・カルチャーについての百科事典的な知識を集めることは彼にとっての現実逃避なのである。
もしあなたが、ゲームであれ、『ゲーム・オブ・スローンズ』であれ、コミックであれ、銃であれ、ケモナー(furries)であれ、アニメであれ何であれ、現代のファンダムに目をやるならば、あなたは二種類の人々を見つけるだろう。一方に、趣味をストレス発散として楽しみ、週末に「ダンジョンズ&ドラゴンズ」を友人たちと楽しんだり、寝る前の1時間を、ナイルズが神とヤる『スーパーナチュラル』/『そりゃないぜ!? フレイジャー』のファン・フィクションの執筆に費やしたりする人々がいる。だがもう一方に、アイデンティティ全体をファンダムを中心に形成する少数派のファンたちがいる。『Overwatch』のスキルやアニメについての博識に自尊心を求める類の人々だ。
彼らがそうなった理由がなんであれ、無害な大多数と、自分たちの趣味に対するいかなる批判をも彼らの愛するもの一切への個人的攻撃として受け止める熱狂的なごく一部の集団とのあいだには線が引ける。その一線を越える人々は、たいていの場合、彼らのうちで何かが壊れているのである。
彼らは彼らの生活がぼろぼろに崩れ落ちるなかで単に逃避しているだけではない。彼らは誰かがそれを指摘しようものなら、激しく食ってかかるのである。なぜなら、批判されたのは、彼らの頭のなかでは、ゲームではなく、彼らのアイデンティティ、ということになるからだ。
原作が、度を越したファンダムの有害な影響をほとんど軽んじているのは事実だ。それが、今日、その物語があまりに単純に見える理由である。
だが、『レディ・プレイヤー1』の結末には、無視されてきた重要な教訓も含まれている。このイースターエッグ探しを用意したハリデーは、勝者への遺言を用意しており、そこで彼は、現実を無視するな、なぜなら現実は、怖ろしく、君を傷つけるものであったとしても、君が本当に意味のあるものを見つけることが出来る唯一の場所なのだから、と告げるのである。
この物語の最後の教訓は、人々がタイラー・ダーデン〔『ファイト・クラブ』〕や、ウォルター・ホワイト〔『ブレイキング・バッド』〕、スカーフェイス〔『スカーフェイス』〕のことをインスピレーションを与えてくれるカッコイイ存在と未だに考えるのと同じ理由で、見過ごされてきた。私たちは、私たちの消費する文化の教訓を忘れる傾向にあるのだ。物語の結びに用意される教訓は、それらに先立つクールなシーンに比べて記憶に残らないことが多い。とりわけ、その教訓が「僕らが物語全体を通して君たちにたっぷり見せてきたばかりのカッコイイことをするのは、悪いことだよ!」というものであるときには。
(最終更新2018/04/01 ※引用中、物語の舞台を「2044年」と述べた箇所に対し「『2045年』の誤り」と訳注をつけていましたが、映画ではなく原作への言及であったため訂正。)
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