ジョン・ロンソン『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』で少し気にかかった訳語:「男性人権運動」

 ジョン・ロンソン『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』(夏目大訳、光文社新書、2017年〔原著2015年〕)は、とても面白い本だ。ネットリンチの各事例もさることながら、炎上でグーグルはどれくらい儲けているのか、群衆論の元祖ギュスターヴ・ル・ボンは最低な人間、映画『es』(2002)の元ネタ実験は相当に胡散臭いかもしれない、暴力と恥の感情の関係、などなど興味深い話題を飛び回って、あっという間に500ページを読み進んでしまう。1200円(税抜)。

 ただ、一点、訳文で少々気にかかったくだりがある。

「男性人権運動を進めるブロガーたち」?
 気にかかったのは、カンファレンス会場の席で友人と下品なジョークを交わしていたところを見知らぬ女性にツイッターで晒されて失職するはめになった男性をめぐるエピソードの次の箇所。

ハンクには、男性人権運動を進めるブロガーたちから擁護のメッセージが届き始めた。ただし、彼はそのどれにも返答はしなかった。弱っている人間にさらに追い打ちをかけるようなコメントをするブロガーもいた。ハンクがハッカー・ニュースに出した声明は弱腰すぎるというのである。

あんなことを書けば、自分は気骨も何もない人間だと言っていることになる。〔・・・〕

(訳書、p.211)

 これだけを読むと、「男性人権運動を進めるブロガーたち」という訳文から原語やそこで想定されているグループの想像がつかない読者には、ハンクが返答しなかったということの意味や、そのあとに出てくるブロガーの攻撃的な発言がいまひとつ分かりにくいのではないかと思う。
 原著は未所持だが、Amazonの試し読み画面から調べると、該当箇所の原文は次の通り。

Hank started receiving messages of support from men's-rights bloggers. He didn't respond to any of them. Later a Gucci Little Piggy blogger wrote that Hank's Hacker News message had revealed him to be a man with

a complete lack of backbone[...]

(Jon Ronson, So You've Been Publicly Shamed,
Riverhead Books, 2015, p.119)

 まず、「男性人権運動を進めるブロガーたち」とあるのは、原文では"men's-rights bloggers"である。「気骨も何もない人間」と訳されている箇所は「気骨も何もない男(man)」のほうが文脈的により妥当だろう。また原文では、ハンクを非難したブログも"Gucci Little Piggy"という実名で出されている。これはもう存在しないブログのようだが、この手のオンライン・グループに詳しいジャーナリストのブログを検索すると、何件かヒットがあり、2012年の記事で「マノスフィアのなかのオルト・ライト/人種主義/ピックアップ・アーティストのグループとおおよそ結びついているブログ」(a blog loosely aligned with the alt-right/racist/PUA wing of the manosphere)と言及されている。
 「マノスフィア」(manosphere)については後述する。「ピックアップ・アーティスト」(PUA, pickup-artist)というのは強いて日本語にすれば「ナンパ師」になるが、「女は獲物」的な世界観を男性相手に自己啓発風のセミナーなどで説いて回る人々のことで、ポール・トーマス・アンダーソン監督の映画『マグノリア』(1999)を見たことがある人なら、あの映画でトム・クルーズが演じていたキャラクターを思い浮かべればいい(見たことがない人には見ることをオススメする)。昔ながらの白人至上主義を新たにブランド化した「オルト・ライト」「オルタナ右翼」(alt-right)という呼称は、トランプの大統領キャンペーンに絡んで日本の新聞・雑誌にまで登場するようになったが、こういった監視役(watchdog)的なウェブサイトでは、かなり早くから存在が認識されていたようだ。

「『マトリックス』のように赤い薬を飲もう!」

 本題に戻ると、“men's-rights bloggers”である。これは、“men's rights activism”(MRA)とか“men's rights movement”(MRM)とか呼ばれるグループに属するブロガー、というニュアンスで理解されるべき言葉だ。では、それはどういうグループのことを指すのか。

 Voxの記事より:

「男の権利運動」(Men's Rights Activism)は、少なくとも1970年代からアメリカ文化の隠された底流として存在しており、たいていの場合、フェミニズムに対するバックラッシュという役目を隠そうともしていない。その運動は、中心となるような意見交換の場も名だたるリーダーも持たないが、中心的なテーマにおいて一貫している。すなわち、抑圧されているのは女ではなくて、男のほうだ、という主張だ。

 平たく言い換えると、ゲーム『Night in the Woods』(2017)のアニメーター、スコット・ベンソンによる以下の短編アニメとなる。


But I'm A Nice Guy from Scott Benson on Vimeo.

フェミナチが僕のアイスクリームを盗んだ!
でも、僕はナイス・ガイなのに!

 上のほうで触れた「マノスフィア」(manosphere)というのは、Wikipedia(英語)にも項目としてエントリーされていることに少し驚くが(2017/03/17アクセス)、こうした「男の権利運動」の面々をはじめ、「ピックアップ・アーティスト」その他、互いに入り混じる一群のグループが出入りし、「男こそが被害者」「女を支配しろ」といった会話の飛び交うオンライン空間の片隅を総称する語である。
 ベンソンのアニメーションが「『マトリックス』のように赤い薬を飲もう! 『マトリックス』はいい映画だよ!」と、『マトリックス』(1999)に言及しているのは、「抑圧されているのは男のほう」という世界観に「目覚める」ことを『マトリックス』になぞらえて、「赤い薬」(red pill)を飲む、と表現する、「マノスフィア」独特の言い回しを揶揄したものだ。

 なお、グループの派生してきた経緯として両者には微妙な歴史的関係もあるようだが、「男こそが抑圧されている側だ」と叫ぶ「男の権利運動」(men's rights movement)と、「男性もまた男女をめぐる役割観や性規範の犠牲となっている」として既存の「男らしさ」からの解放を訴える「メンズリブ」(men's liberation movement)とを混同してはいけない。

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