「トランプの大統領選勝利を支えたのは、『オルト・ライト』(Alt-right)ではなく、『キリスト教右派』だ」という別サイトの記事の紹介を書いたあとで、こちらを読んで「ふむ」と思ったので、紹介。Jacobinの記事「リチャード・スペンサーの人種主義のエリート的なルーツ」(Michael Phillips, "The Elite Roots of Richard Spencer’s Racism", Jacobin, 2016/12/29)。
タイトルのリチャード・スペンサーとは、少し前から英語圏ネット上の雑多な極右グループによって自称の語として用いられている「オルト・ライト」(Alt-right, オルタナ右翼)なる語の考案者とされる人物。2016年米大統領選におけるドナルド・トランプへの熱狂的支持によってグループの存在に注目が集まり、トランプ勝利後の演説会で「ハイル・トランプ!」とナチスを模して叫んだスペンサーの名も大きく報じられた(The Atlantic)。
個人的には、「『オルト・ライト』なんて言葉は使うな」というSF作家ウィリアム・ギブスンの指摘(下参照)に少なからず同感するし、「ハイル・トランプ」演説が主要メディアを騒がせるまでさして有名だったとも思えないこの人物にわざわざ注意を払うのもいかがなものかと思ったりする。まるで彼らがいないかのようなふりをするのはもっとマズいにしても、彼らの自称をそのままに用いた見出しがメディアに躍るさまには、あまり健全な印象を受けないのである。
Don't use "alt-right". It's an increasingly effective branding move for authoritarian white supremacists. Each time we use it, we help them
— William Gibson (@GreatDismal) 2016年11月16日
「オルト・ライト」なんて言葉は使うな。そんなものは、権威主義的な白人至上主義者のための、ますます効力を発揮しつつあるブランド付けの手口である。その語を使うたびに、私たちは彼らを手助けしている。
ただ、その点、Jacobinの記事は、あえてスペンサーについてケース・スタディを行うことを通じて「オルト・ライト」なる偶像を解体している、と言えるだろう。要約すると、なんら難しい話ではなく、スペンサーは、「極右の新しいリーダー」というような本人やメディアが描くセンセーショナリズムとは真逆の、テキサスの保守的な風土で育った、そこらによくいる(しかし、なぜか忘れられがちな)ボンボンの白人至上主義者である、というお話。記事はついでに、「困窮する白人貧困層が・・・」といった適当な「トランプ支持者」像を語るのはやめようぜ、という点についても論じている。
アメリカの極右の動向について外から眺めていて興味深く思えるのは、実のところ、つねにそこにいたはずの白人至上主義者たちが「一体どこから出てきたのか!?」と当のアメリカの人々の眼にも映るほどアメリカの社会風土全体が進歩的になっている、ということかもしれない。逆説的だが、トランプ勝利は、日和見主義的な彼のもとに雑多な声を結集させているバックラッシュの政治運動そのもの以上に、そのバックラッシュが抗おうとしている現に進行中の潮流を際立たせているわけである。この点については、Wiredが「トランプの勝利に惑わされるな―アメリカはますますリベラルになりつつある」という、グラフのたくさんついた記事を少し前に出していた。
だが、そうであるからこそ、今なお過ぎ去っていない同時代としてのアメリカ史を改めて振り返らなければ、現在何が起きているのか、を想像しづらくもなっている、ということなのだろう。
「嘆かわしい人々」は高級住宅に住まう
以下、Jacobinの記事より抜粋。スペンサーの目標は、彼があいまいに「平和的な民族浄化」と呼ぶものを通じて白人の民族国家を創ることだ。彼は、公然と民主主義に反対し、「人種的に純血な」エリートによる支配を支持する。「私はエリートというものを信じている。」テキサスA&M大学で彼はこう語った。「私は、文化と社会というものは、全面的にではないにしても、かなりの程度、トップダウンで生まれるものだと信じている。私はエリートたちが国のトーンを定めると信じている。」
スペンサーは、彼のアメリカ・ホワイト・ナショナリズムのブランドがなにか完全に独自なものだと人々に信じさせたがっている、「新たな始まり、アメリカにおける保守主義の新たな出発点」だと。
そしてあまりにもしばしば主流のニュース機関はこの罠にはまり、スペンサーの文化的洗練なるものについてくどくど書き立てて、白人至上主義に新鮮な装いを与えようというこの38歳の男の企みを知らず知らずに手助けしているのである。
ブルジョワのレポーターたちは、はっきりと彼らの一員である人種主義者に出会うことにショックを受けたようだ。Tシャツ姿でバドワイザーを飲んでアーチー・バンカー〔訳注1〕みたいな英語でモゴモゴ喋る、マンガめいた労働者階級のステレオタイプではない人種主義者に。
だが、スペンサーは報道機関を驚かせるかもしれないが、彼は、ありふれた、(見過ごされてきたにしろ)長年続いてきた一つの現象を代表しているのである。すなわち、教育を受けた、財政的にも裕福な、偏狭頑迷な人物(bigot)である。
実際、彼の人種主義とエリート主義との融合は、スペンサーの故郷の富裕層のあいだで永らく流布してきた世界観、そしてテキサスにおける社会通念を特徴づけてきた世界観の極端なバージョンであるに過ぎないのである。
スペンサーはボストンで生まれたが、子ども時代の多くをテキサスで過ごした。彼は1980~90年代にダラスのプレストン・ホローで育ったのである。ダラス市全体と比べて白人の人口比率が顕著に高く、120000ドルを超える世帯所得の中央値を自慢する地区である。今日、ジョージ・H・W・ブッシュや、マーク・キューバンやロス・ペロー、T・ブーン・ピケンズといった億万長者がこのスペンサーの故郷を地元としている。
何世代にもわたって、ダラスは、目立たないリチャード・スペンサーたちを生み出してきた。彼らの大半はナチス風の敬礼はしなかったが、1世紀半のあいだ、市の上層階級は、黒人や有色人種を嘲り、「ジム・クロウ」〔訳注2〕という名の彼ら自身のバージョンの人種分離主義を奨励し、そしてスペンサーに劣らず民主主義を冷笑してきたのだ。
ダラス地区の学校の人種主義的な環境は、公民権の時代の後も消え去らなかった。ダラス独立学区における最初の人種差別撤廃令は1955年に出された。だが、ダラス独立学区において「もはや人種隔離は存在しない」と裁判所が宣言したのは、2003年になってのことである。すなわち、白人の親たちが、かつてなく黒人・有色人種の生徒の増えたダラスの学校システムを逃れて、より北へ、最初は郊外、次いでより白人の多い準郊外へと移住してからだいぶ経った後のことであった。
先月ワシントンD.C.でヒトラー風の敬礼を率いた男は、特異な存在ではない。彼のエリート主義、人種主義、そして反社会多元主義的・反民主主義的な政治的立場は、ダラスの歴史の有毒な土壌に根を張るものである。彼の師の多くは、むきだしのホワイト・ナショナリストではなく、幾世代もの、市の「立派な」保守派のリーダーたちであり、彼らはトーンにおいてはスペンサーと違えど、核にある信念においてスペンサーと違うところがなかったのである。
残念ながら、ダラスもまた特異な存在ではない。全国に渡って、エリートの子どもたちは、白人至上主義的な考えを安定して供給されてきた。教育が独力で人種主義を取り除くことなどなかった。実際のところ、高等教育はしばしば人種主義を鼓吹してきたのである。
しかしながら、トランプの台頭は、白人労働者階級の有権者に対する軽蔑の波を引き起こした。
あまりにも多くの人々が、クリントンが「嘆かわしい人々の集まり(a basket of deplorables)」〔訳注3〕と呼んだものの中核にいるのは、斜陽鉄鋼業地帯(Rust Belt)の消えゆく製造所や、自動車工場、あるいはキリスト教に狂信的で、銃を手放さない農場コミュニティで汗水を流している人々だと想像している。
リチャード・スペンサー、というダラスのエリート・サークルの所産は、こうした語り全体に疑義をさしはさむ。嘆かわしい人々の多くは、会社重役の席に心地よく腰かけ、高級住宅からの眺めを楽しみ、あるいは、スペンサーのように、モンタナ州ホワイトフィッシュのようなスキー・リゾート地で夕陽を楽しんでいるのである。どうしたら有色人種の台頭(the rising tide of color)〔訳注4〕をせき止めることができるかと企みながら。
〔訳注1〕“All in the Family”という1970年代のシットコムのキャラクター。
〔訳注2〕ジム・クロウ法(Jim Crow laws)、すなわち南北戦争後に南部諸州で再制定され、1960年代まで続いた人種隔離の法体系を指す(コトバンク)。
〔訳注3〕選挙戦中の2016年9月9日に民主党候補ヒラリー・クリントンが「非常にざっくりと言うと、トランプ氏の支持者の半数は私の考える嘆かわしい人々の部類に入る」と発言し、翌日に本人が撤回した(CNN日本語)。「ファクト・チェック」的に言うと、サンプル調査ではトランプ支持者の半数以上が「オバマはムスリム」「オバマはアメリカ生まれではない」と回答していたり(ThinkProgress)、「誤り」とも言いがたいのだが、そうやってメディアが「ヒラリーは間違っていない」とトランプ支持者についてネガティヴに書き立てるふるまいに対して、この記事のJacobinなどは異論を載せていた。
〔訳注4〕優生学者ロスロップ・スタッダード(Lothrop Stoddard)による1920年の本のタイトル『有色人種の台頭:白人世界の優越に対する脅威』(The Rising Tide of Color: The Threat Against White World-Supremacy)のもじりのようだ。
(※)なお、文中、“black and brown”という表現が二度出てきたが、‘brown’にあたるグループを総称する日本語が思いつかなかったので、大雑把に「黒人と有色人種」という訳語をあてた。ニュアンスとして正確ではないが、「人種」という観念自体が不正確なものなのだから、この文脈ではわざわざ「褐色人種」などという耳慣れない日本語を使う必要もないだろう、という判断による。
トーンは違えど、同じ穴の・・・
記事に出てきた用語について触れておくと、彼らアメリカの極右活動家たちの多くは、自分たちのことを「ホワイト・ナショナリスト」(white nationalist)と呼び、「白人至上主義者」(white supremacist)とは呼ばない。民族自決のレトリックを盗用して「自分たちはあくまで『白人の国家』を求めているだけだ」「人種差別ではなく人種分離を求めているのだ」というのがその理屈だが、往々にして「劣等な有色人種の手に渡ったら偉大な西洋文明が滅び去る」といった類の、昔ながらの白人至上主義の主張がしっかりセットでついてくる。彼らは、「多文化主義は、白人に対する民族虐殺(white genocide)だ!」と叫びつつ、人口の数十パーセントを「民族浄化」する必要を大っぴらに語り、「ナチスによるユダヤ人虐殺はなかった」というホロコースト否定論とも縁が深いようだ。
そんな彼らがトランプを「我らの候補」とばかりに応援し、トランプ自身が彼らのあいだで人気の右翼系ニュース・サイトBreitbartの会長を起用したため、にわかに彼らの存在に注意が向けられたが、トランプ勝利からしばらく経って、彼らのあいだでの内輪揉めやトランプへの幻滅が聞こえ始めてもいる。
英ガーディアンの記事によると、グループのリーダーの一人は、スペンサーの「ハイル・トランプ」演説を失策と批判し、「ドナルド・トランプは、一度として、私のような人種主義的異端派ではなかったのだ。彼は我々の一人などではなかったのである。彼はアメリカ・ナショナリストなのだ。左翼が、彼が私のような人々とダンスを踊っている、と考えるのは誤りだ」と語っているらしい。確かに、トランプがアメリカ白人国家化のための「民族浄化」を公約したという話は聞いたことがない。
スペンサー自身、トランプから「関係を否認する」(disavow)という言葉で突き放されて、「トランプのチアリーダーどもとつるんでいる時代は終わった」と逆に自分のほうからもトランプ次期政権と距離を置き始めているようだ。
ただ、こういう人目を惹く極右活動家グループとトランプ本人との愛憎劇は実のところどうでもいいことで、むしろ重要なのは、エキセントリックに映る彼らと旧来型の保守エリートのある層とのあいだに、決して小さくない知的(?)・文化的な連続性がある、という点なのだろう。Jacobinの記事が指摘するところの「トーンにおいてはスペンサーと違えど、核にある信念においてスペンサーと違うところがない」保守エリートたちがトランプ次期政権でどのような役割を演じるか、のほうが懸念されているのである。
ThinkProgressの記事は、トランプが、ムスリムの入国全面禁止、メキシコ国境の壁建設、といった公約をなんら撤回していないことを指摘した上で、次のように述べている。
トランプのキャンペーンの公約よりもさらに重要なのは、彼の閣僚候補たちである。現在のその名簿は、過去半世紀の経済的・社会的達成の大部分に真っ向から反対するスタンスに立つ極右イデオローグの名士録状態となっている。
ただ、最初のほうで触れたWiredの記事に戻れば、そうした彼らがもはや多数派を代表していない、という現実がまた重要な意味を持つのだろう。
しかし、バックラッシュはトランプ次期大統領の勝利を助けたかもしれないが、彼が国を率いるところまでは助けてくれないかもしれない。一般投票で彼が300万票近く負けていたというばかりでなく、データを掘り探ってみると、国境の壁から気候変動、銃規制に渡るあらゆる物事について多数派の人々が彼の見方を拒絶するようになっている国をトランプが引き継いだ、ということをあなたは知るだろう。
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