【書評】辻田真佐憲『楽しいプロパガンダ』

 アメリカでいま、アメリカン・フットボール選手コリン・キャパニック(Colin Kaepernick)の国歌演奏に対する起立拒否が物議をかもしている。国内における人種差別への抗議の意思表明として、試合前の国歌演奏時に起立を拒み、ベンチに座り続けるキャパニック選手の行為が、賛否を呼んでいるのだ[1]

 コメディアンのスティーブン・コルベア(Stephen Colbert)が、これについておもしろいコメントをしている[2]

 コルベアは、そもそもどのようにして国歌とスポーツ・イベントが結びつくようになったのか、と問い、アメリカにおけるその始まりが、第一次世界大戦が終わりを迎えようとしていた1918年の野球ワールド・シリーズにおける、シカゴ・カブスとボストン・レッドソックスとの一試合に遡ることを指摘する。当時の新聞に「ワールドシリーズ史上最も静かな試合」と称されたほど盛り上がりに欠けたこの試合で、唯一観客を熱狂させたのが、ミュージシャンによる国歌の演奏で、そのことに気が付いたカブスは、続く試合でもバンドによる国歌演奏を行い、大観客動員に成功したのである(「そして、カブスは負け、その伝統は今でも続いております」とのオチがつく)。
 コルベアは、この物語から次のような結論を引き出す。

“この物語は、試合での国歌の演奏が、何にもまして最もアメリカ的なものであることを証明します。すなわち、マーケティングです。ですから、それに参加しないことは、さして侮辱的ではないのかもしれません。あるいは、もしこれが侮辱的であるとするなら、「ワシントン誕生日セール」でマットレスを買わないこともまた侮辱的であるべきなのかもしれません。”

 スポーツに「愛国心」を持ち込むこの「伝統」は、一見ありそうに思える戦時中の戦意高揚のためといった経緯からではなく、むしろ戦時下の民衆のナショナリズムにつけ込んだ商魂からこそ生まれた、というわけである。
 しかし、このようなマーケティングは、はたしてコルベアの言うように「アメリカ的(American)」なものなのだろうか?

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 辻田真佐憲『楽しいプロパガンダ』(イースト・プレス、2015年)は、いわば「娯楽の政治利用」と「政治の娯楽利用」とがときに区別困難なほどに重なり合う、そんな「楽しいプロパガンダ」の普遍的な性質と多種多様な現れ方とを描き出している。
 目次は次の通り。

第1章 大日本帝国の「思想戦」
第2章 欧米のプロパガンダ百年戦争
第3章 戦場化する東アジア
第4章 宗教組織のハイテク・プロパガンダ
第5章 日本国の「政策芸術」

 第1章「大日本帝国の『思想戦』」は、「〔宣伝は〕楽しみながら不知不識(しらずしらず)の裡(うち)に自然に感興の中に浸って啓発教化されて行くということにならなければいけない」という陸軍新聞班将校の発言を、「まるで広告業のコンサルタントのようだ」と評するところから始まる。
 そこから取り上げられるのは、お笑い、音楽、映画、宝塚少女歌劇、懸賞、グラフ誌、観光、といった多岐にわたる事例である。著者は、当時のプロパガンダを「退屈だった」とする証言が多くあることを認めた上で、しかし、「楽しい」事例にこそ注目する必要があることを説く。

 強制的で退屈なプロパガンダを恐れる必要はない。そんなものは反発を生むだけで、大した効果も期待できないからだ。そうではなく、娯楽を通じて知らず知らずの内に浸透してくるプロパガンダこそ警戒すべき存在なのである。
 そのような優れたプロパガンダは、政府や軍部の一方的な押しつけではなかった。むしろ、民衆の嗜好を知り尽したエンタメ産業が、政府や軍部の意向を忖度しながら、営利のために作り上げていった。こうすれば、政府や軍部は仕事を効率化できるし、企業は儲かるし、民衆も楽しむことができる。戦時下に山のようにプロパガンダが生まれた背景には、このような構造があった。

 戦争勃発を琵琶再興の好機ととらえた琵琶業界の動き、標語そのものより公募による多数の人々の参加に宣伝効果があった標語懸賞などは、まさに、こうしたプロパガンダと営利と民衆との絡まり合った様相をよく物語っているであろう。

 第2章「欧米のプロパガンダ百年戦争」で中心となるのは、ソビエト連邦とナチス・ドイツ、という二つのプロパガンダ大国。
 革命国家ソ連で、モンタージュをはじめとする前衛芸術手法が花開いたことは周知であろうが、「カチューシャ」のような「民謡」が、多様な民族のなかから「ソビエト国民」を作るために1930年代に作られたものであること、などは見逃されやすい論点であろう。著者は、「政治に無縁と思えるラブソングにこそ、プロパガンダの付け入る余地があった」と指摘する。
 ベルリン・オリンピックなど、ナチスとゲッベルスの物語は、ソ連以上によく知られたものであるが、個人的には、対外ラジオ放送「こちらドイツ」(Germany Calling)について新たに教えられた。大日本帝国、ナチス・ドイツともに、国内の公式言説ではジャズを「英米音楽」「非ドイツ的音楽」視する一方で、対外放送での使用を躊躇しなかった、との指摘はおもしろい。

 第3章「戦場化する東アジア」の主役は、金正日と北朝鮮である。「我々の考える『プロパガンダ』のイメージそのものが、北朝鮮によって形作られているところさえある」とは、言い得て妙。だが、この〈北朝鮮=プロパガンダ〉イメージそのものが、その成否はともあれ、金正日の努力の賜物なのである。いまや北朝鮮の代名詞のようなあの勇ましいアナウンサーの口調も、プロパガンダ部門にいた金正日の指示によって1971年に始められたものであり、そうした精力的な取り組みを通じて、彼は後継者としての地位を確かなものにしたのである。
 こうした「将軍様」のプロパガンダは、外の眼には奇異に映るが、著者によれば、これもまた、その理念においては〈娯楽を通じた教化〉という「楽しいプロパガンダ」の王道を追求するものであった。その路線は、金正恩にも受け継がれ、「モランボン楽団」、スポーツ、観光客誘致といったさまざまなかたちで目にすることができるのである。
 後半では、韓国、中国、台湾の事例が触れられる。中国の「抗日テーマパーク」は、レストランやお土産コーナーまでを揃えたその構成において遊園地と大差がなく、経済成長を背景とした娯楽に対する欲求に応える面がある、との指摘など興味深い。

 第4章「宗教組織のハイテク・プロパガンダ」では、オウム真理教と「イスラム国」の広報戦略が取り上げられる。
 出版・テレビ出演・アニメ制作・インターネットといったオウム真理教の広報活動は有名だが、本書の事例比較の目を通すと、特異な集団の所業というよりも、その「普通さ」が印象に残る。オウムが「エヴァンゲリオン」という単語をガイナックスのアニメより先にラジオ名で使用していた、というのは、恥ずかしながら(?)初耳だった。両者にこのギリシア語を見つけさせた、何か共通の種本でもあったのだろうか?
 プロパガンダの普遍性、という印象は、「イスラム国」についても同様。「楽しいプロパガンダ」とは一見程遠い処刑動画にしても、興味本位の拡散が期待されているのであり、遺跡破壊といった暴挙も、欧米メディアで何が報道されるかを計算した上で戦略的に情報発信されているのである。なお、著者は触れていないが、「イスラム国」とプロパガンダについて言えば、「イスラム国」が、〈イラクのアルカイダの黒幕、アル・ザルカウィ〉という、アメリカ・ブッシュ政権のイラク侵攻のためのプロパガンダを逆利用することによって成長した、という面も重要であろう[3]

 第5章「日本国の『政策芸術』」では、自民党議員の勉強会「文化芸術懇話会」で使われた「政策芸術」という言葉を念頭に、百田尚樹の小説『永遠の0』や、 『ガールズ&パンツァー』に代表される「萌えミリ」ジャンル、といった現代日本における諸事象が取り上げられる。
 著者は、百田のような確信犯はともかく、戦争・軍事を扱うものを一概に「右傾エンタメ」と指弾するのは的外れ、と指摘しつつ、無償で映画製作に協力する自衛隊にも明確な広報戦略があるのであって、行政の「ゆるキャラ」利用のようなものを含めて、娯楽とプロパガンダの関係は常に注視を要する、と説く。

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 巷のよくある誤解(プロパガンダの所産?)と思えるが、「プロパガンダである」ことは、「事実に反する」といったことを意味はしない(「○○は、××のプロパガンダだ!」というのも、それこそ最もありふれた「プロパガンダ」であろう)[*附記]。原義から言っても、「プロパガンダ=虚偽・捏造・間違った主張」を意味しないし、実態においても、「プロパガンダ=一方的に押し付けられる意見」などではない。「プロパガンダである」というのは、それ自体においては「宣伝をしている」という以上でも以下でもないのである。
 本書の著者が問題としているのも、〈楽しんでいるうちに知らず知らずに影響されてしまう〉という、最も洗練された姿におけるプロパガンダの働き方そのものであって、それぞれの主張内容ではない。「プロパガンダである」という判断は、内容についての真偽や賛否とは関係がない。

 その明確な問題意識ゆえであろう、この本からは、この手の題材の本にしばしばありがちな、他者のトンデモっぷりを嗤ってひとり悦に入る、といったシニカルな姿勢は感じられない。
 結論も、「①どこの国でも『楽しいプロパガンダ』が利用されてきたこと、②現代日本でも同じような『楽しいプロパガンダ』が発生するかもしれないこと」という穏当なもの。だが、そこには、「楽しいプロパガンダ」はいつでもどこでもあらゆる形をとって出現し得る、という冷徹な洞察があるとも言えよう。

 ところで、著者は「プロパガンダ」を、「政治的な意図」に基づく宣伝行為に限定しているが、この限定は妥当だろうか?(もちろん、著者は、本来「宣伝」が「プロパガンダ」の訳語であって、その意味で商品コマーシャルなどもプロパガンダの一種と言えないこともない、とも述べている)
 そもそも「政治的な意図」とは何だろうか? 逆に「政治的性格を持たない意図」というものが特定できるのだろうか?
 問いの立て方を変えてみよう。たとえば、今日ある姿での年中行事「七五三」は、民俗学的には、大正期以降の百貨店の販売戦略の所産だと言われるが、「商業的な意図」に基づく宣伝が「政治的な機能」(=〈日本人の伝統としての神道〉というイメージ)を果たす場合、これは「楽しいプロパガンダ」とは区別されるべきなのだろうか? では、「神前結婚式」は?

 ワシントン誕生日に半額のマットレスを買う人だって、楽しみながら知らず知らずにアメリカ史について教化されているのかもしれない。どこからを「政治的」として、どこまでを「非政治的」と扱うか、それこそプロパガンダの本質に関わる一番「政治的な」問いではないだろうか?

(kindle版にて読了)


[1] 「国歌演奏で起立拒否したNFL選手が物議 「虐げられる人々のため」彼が訴えたかったことは...」

[2] https://youtu.be/_Vv8KPMMJqE?t=152(動画)

[3] ロレッタ・ナポリオーニ『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』(村井章子訳、文藝春秋、2015年)第4章を参照。

[附記]【2016/09/18追加】本書とは関係のない二冊の本を扱ったものだが、「プロパガンダ批判」の危うさ、ということについて、共感を覚える書評記事が出ていたので、リンクを貼っておく。「(書評)『プロパガンダ』史観の限界」(疑似環境の向こう側、2016/09/16)BLOGOS経由で発見〕


【訂正】(2016/09/22)

 「国歌演奏」と書くべきところを一部「国歌斉唱」と記しておりました。訂正させて頂きます。


【関連記事】(2016/09/22追加)

【海外記事紹介】「キャパニックがスポーツに政治を持ち込んだのではない。NFLが国歌の演奏によって持ち込んだのだ」(Vox)