「155人の命を救い、容疑者になった男。」という『ハドソン川の奇跡』の困ったキャッチコピー

 クリント・イーストウッド監督、トム・ハンクス主演の映画『ハドソン川の奇跡』が「実話」と謳いながら、実際の出来事とかけ離れた、かなり問題のある脚色を行なっていることについて、先日、英ガーディアンの批判記事を紹介したが、たまたまネットを見ていたら、「155人の命を救い、容疑者になった男。」というキャッチコピー入りの広告を目にしてしまったので、再び一言。断っておくと、映画そのものは見ていない。

 映画のタイトルを検索すると、「容疑者」だけでなく、「裁判の行方」とかそんなタイトルの記事が出てくるが、言うまでもなく、事故調査は「裁判」ではないし、機長と副操縦士は「容疑者」になどなっていない(事故調査が行われること自体を「容疑者扱い」だと考えているのかもしれないが、これは、ガーディアンの記者が危惧するように、事故調査というものの役割についての根本的な誤解だろう)。
 事実を曲げてまで悪役とドラマを組み込んだ映画そのものと「知られざる真実」を煽る映画会社のPRに責任があるが、プロであれアマであれ、報じる側も、垂れ流し広告のつもりでないなら、少しは頭を使えよ、と思う。

 ちなみに、トム・ハンクスが、モデルとなったサレンバーガー元機長から、調査官たちの名前を実名から変更して欲しい、調査官たちは、自分たちが何か間違いを犯したと有罪判決を下そうとしていたのではなく、どうしてああなったのかを解明しようとしていただけなのだから、との注文を製作段階で受けたことを明かしており(→英語記事)、元機長本人から、主演俳優陣まで、関係者のあいだではこの大幅な脚色について良くも悪くも自覚はあったようだ。残念ながら、名前の変更だけで問題は片付けられてしまったわけだが。

 あるいは、「クリントが最初に脚本を手にしたとき、彼が言うには彼の最初の疑問は『敵役は誰だ? 葛藤はどこにある? ドラマはどこにある?』というものだったそうだ」というサレンバーガー元機長の発言も伝えられている(→英語記事)。
 「単なる感動実話では映画にならない」と直感するイーストウッドは、物語作家としては正しいだろうが、そういう定型的な物語の持つ暴力性にあまり関心がないようにも映る。

 サレンバーガー本人の映画に対する感想は今一つ分からないが、どうも、航空安全についての彼自身の啓蒙活動にとって強力な味方となるので、映画自体の反啓蒙的な側面には目をつむる、という態度のようにも受け取れる。そんな勝手な憶測をあえて書くのは、彼を責めたいからではなくて、実際の出来事との明白な齟齬を当事者側に背負わせてしまう、映画と宣伝の独り歩き、というものの罪深さを感じるからである。

 私は原作も未読だが、原作をお読みになられた方も「あくまでもこの書籍からはそんな辛い経験をされたことなど一つも感じることは出来ませんでした」「容疑者扱いされたという事実は無いでしょうね」と明言されており、映画と宣伝が与える印象が「実話」という観点からはかなりミスリーディングなものであることがうかがえる。
 劇映画はつねにフィクションであって、脚色それ自体は、悪いことではないが、モデルとなっているのが人々の記憶に新しい比較的最近の出来事であり、映画が「実話」と喧伝されていることを考えると、不正確でミスリーディングな描写と宣伝は批判されるべきであろう。


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